フィルスタコースのブログ

中央学院大学 法学部 フィールドスタディーズコースの情報を発信するブログです。

2017年11月

精力的な授業を展開している川久保先生の「平和学」。
先日の特別授業に続いて、またまた特別企画の授業が行われました!
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川久保先生の報告記を見てみましょう。
(掲載した写真は本学企画課の撮影によるものです)

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 法学部「平和学」では、11月21日(火)に国際協力事業団(JICA)のコンサルタントを務めている標昌充
(しめぎ まさみつ)氏をお招きし、「アフガニスタンにおける地雷処理―戦争と平和を考える」と題した特別企画を行いました。
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今回の講演者 標昌充さん(左)と「平和学」担当の川久保先生(右)


 標先生は2002年以来、アフガニスタン、アンゴラ、カンボジアなどの地雷汚染国において、地雷の処理除去活動に従事され、平和構築活動の最前線で活躍された方です。現在でもコンサルタントして外務省などに政策提言をされています。
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 今回の特別企画では地雷の問題ばかりではなく、その背後にあるタリバーン政権下でのアフガニスタンにおける貧困問題、女性の人権問題、紛争後の若者の職業訓練などについて、平和を広く捉える観点からお話いただきました。
 対戦車地雷や対人地雷の実寸模型や、女性が被る"ブルカ"をご持参いただき、学生たちが直に触れる機会も作ってくださいました。地雷処理の現場で標先生が実際に撮影された映像とスライドを見る学生たちは、普段にも増して真剣な様子でした。
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 世界には埋設された地雷が6000万個(あくまで推定)あり、毎年除去できる数はたったの15万~30万個、つまり単純に計算してもこれから200年~400年かかるという衝撃的な実態に、学生たちは驚きの表情をみせていました。
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 そして地雷で足を失くした弟のために自らの危険をかえりみず、しかもわずかな報酬しかもらえなくとも地雷の処理除去作業に参加している19歳の同世代の女性の表情も、学生たちに強く印象に残った様子でした。
学生からも質問が出され、活発な雰囲気での特別企画となりました。
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 お忙しいところ貴重なお話をしていただいた標先生に、心より感謝申し上げます。


11月も後半に入りました。
キャンパスは今、黄葉が進んでキレイ。
このイチョウ、まだそれほど大きくないイチョウですが、輝くような黄色に染まっていました。
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10月31日(火)5時間目に、平和学では特別企画を開催しました。
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本学の学生も会員になっている我孫子市平和事業推進市民会議のご協力も得て、普段の講義とはまったく異なるスタイルをとり、学生たちによるプレゼンテーションを行いました。100名以上の参加者で教室は埋まり、スタートから熱気あふれる時間となました。

まず本学法学部3年寺原正一郎君(我孫子市平和事業推進市民会議委員)が「フィリピンスタディーツアー&我孫子市平和事業推進市民会議の取り組み―中学生広島派遣について」と題して報告を行いました。
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海外ボランティア活動の一環として、寺原君は今夏、フィリピンを訪問し、フィリピンが抱える貧困や格差、麻薬問題、そして戦時中、日本軍がフィリピンで行った残虐な行為(バターン死の行進、マニラ大虐殺など)について、自分の目で学んできました。偶然にも、過激な麻薬取り締まりで有名になったフィリピンのドゥテルテ大統領が来日中でしたので、臨場感をもって学生たちも話を聞くことができました。寺原君は市民会義の委員として今回初めて、我孫子市の小学生たちを広島に引率した経験にも触れながら、現場体験によって平和を学ぶことの大切さを、学生たちに向かって呼びかけている姿が印象に残りました。

次に、明治大学3年の郡山琴美さん(我孫子市平和事業推進市民会議副会長)と川村学園女子大学1年の小谷典子さん(同委員)が、「広島・長崎派遣中学生リレー講座―未来を生きる子どもたちへ」と題して、我孫子市の各小学校を回って行っているリレー講座の実演を行いました。
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とてもわかりやすい言葉で、大学生たちに語りかけるように、広島・長崎における原爆投下の凄惨な現実を話してくれました。被爆した小学生たちが書いた詩の朗読も取り入れた実演に、学生たちは真剣に聞き入っていました。
最後に2人から、「平和な世の中にするために、今日から自分ができること」という呼びかけがなされ、学生たちに平和のメッセージを記す「葉っぱ」が配られました。「人と人との関係を大切にする。思いやりをもつ」、「人任せにしない」、「戦争のない世界平和を渇望する」、「歴史を正しく学ぶこと」、「平和が当たり前ではないことを痛感した」など、学生たちは紹介しつくせないほど、意味あるメッセージを残してくれました。
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多くの「葉っぱ」のメッセージが貼られた3本の「平和の木」は、中央学院で平和を学ぶ学生たちにとっての貴重な財産となりました。
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「70年で街は生まれ変われる。でも人はできないから、平和は守るべきなんだ」

このメッセージは、ある学生が祖母から聞いたという話をそのままアンケートに記してくれました。心に刻まれる言葉です。素晴らしい学生たちとともに、今後も我孫子から生きた平和教育を展開してまいります。
今回の特別企画の開催にあたり、我孫子市平和事業推進市民会議からも、山田恒久会長を始めとして多くの委員の方々にも出席していただきました。また、我孫子市企画課や本学企画課にも大変お世話になりました。厚くお礼を申し上げます。

夏休み後半の9月1日に、川久保ゼミでは、明治大学平和教育登戸研究所資料館において、課外授業を行いました。
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明治大学生田キャンパスは、小田急線の生田駅から徒歩約10分のところにありますが、1951年より理工学部と農学部のキャンパスとして使用されています(以前は一時期、慶応大学工学部のキャンパスがありました)。
あの著名な探検家植村直己や映画監督北野武の出身キャンパスでもあります。前期中に輪読した西谷修著『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書)では、様々な戦争の実相が描かれており、それを踏まえての平和学習となりました。
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登戸研究所は、1937年に「陸軍科学研究所登戸実験場」として開設され、主として、電波兵器や無線機器などを開発する施設でしたが、やがて日中戦争の拡大とともに、その組織も拡充されました。
登戸研究所の組織は、第一科から第四科まであり、その中でもとくに有名なのが、第一科で研究・開発された「ふ号兵器」である気球そのものを兵器化した「風船爆弾」です。
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これは観測用に作られたものではなく、米国本土をかく乱するための「謀略兵器」でした。千葉県一宮、茨城県大津、そして福島県勿来に放球基地があり、史上初の「大陸間横断兵器」であったとも言われています。
さらに特筆すべき点は、「秘密の中の秘密」の組織と言われた第三科の行った贋札(偽札)の製造でした。登戸研究所自体が秘匿の組織でしたが、この研究所の敷地内になる偽札製造の拠点となった第三科(5号棟、26号棟)は、3メートルの高い塀で囲まれ、所長と第三科関係者以外は、出入りができなかったようです。
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登戸研究所で開発された資材や研究された内容は、人道的にも国際法上も許されることのできない大きな問題を含んでいました。しかしながら、戦争の隠された史実を直視し、当時何が行われたのかに関して「五感」をフルに使って考えることは、これからの平和な世の中を作っていく学生たちにとって大切な責務になるだろうと思います。
この研究所の設立の趣旨には、教育機関の責務として、明治大学は近隣地域と連携しながら、平和教育の発信地としての役割を果たしていくと記されています。学生たちにとっては、平和学習ばかりではなく、社会における大学の存在理由や、大学で学ぶ意味を考えることのできた貴重な時間になったと思います。
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