谷川先生のフィールドスタディ報告第2弾です!
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谷川・コース演習Ⅱ(4年生)の2016年度(夏休み)のフィールドスタディは、長崎市でした。
この場所も、学生の希望で決まりました。くしくも、3年生のゼミは広島、4年生のゼミは長崎と、どちらも平和学習がメインテーマとなりました。
長崎の「平和公園」(電車通りからエスカレーターでのぼる高台の場所)と「平和記念像(北村西望・作)」を見学した後、電車通りの低い部分に戻り、近隣の「爆心地公園」の「原爆落下中心地」を見学しました。「原爆落下中心地」の記念碑は黒御影石のモニュメントですが、その横には、被爆した旧「浦上天主堂」の遺構が移築されています。
長崎県出身の彫刻家(文化勲章受章)、北村西望が5年の歳月をかけて1955年に完成した「平和記念像」の前で記念写真。前列の左から3人目の帽子をかぶった方は、被爆者の語り部の方。
この「平和記念像」は、被爆10周年の1955年の8月8日に完成しました。像の高さは9.7m、台座の高さは3.9m、総重量は約30tという巨大な作品です。 「高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平の左手は平和を、立てた左足は救った命を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、軽く閉じた目は犠牲者の 冥福を祈っている」と解説にあります。語り部の方のお話で、この像の顔は、まっすぐ正面を向いていない、とのことでした。像に向かって、やや右側を向いて います。これは、爆心地の方向を向いているのだそうです。
記念写真を撮る前に、被爆者の語り部の方からお話を伺いました。この方は、ほぼ毎日、この平和公園の一角にある「原爆殉難者の碑」の前に立ち、「平和記念像」を見学に来る人々に声をかけ、長崎の原爆の話をされるとのことでした。ニューヨークの国連本部に行って、「反核兵器・平和」のアッピールをされたこともあるとのことです。印象に残ったのは、「日本のことを“平和ボケ”と言う人がいるが、“平和ボケ”でいいんじゃ。“平和ボケ”こそ大切なのだ。日本は戦後70年間、一人として戦争で人殺しをしてこなかった。それを“平和ボケ”と言うなら、大いに結構」というお話でした。
その後、数分離れた、ちょっと高いところにある「長崎原爆資料館」をじっくりと見学しました。
翌日は、観光船に乗って世界遺産(「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」)の「軍艦島」ツアーに参加しました。
やや波があって、上陸できないかもしれないと言われたのですが、ゼミ生たちの熱意が通じたのか、無事に上陸・見学ができました。
通称「軍艦島」の正式名称は「端島(はしま)」です。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の海底炭鉱の島として、明治から昭和の時代に繫栄しました。しかし、1974(昭和49)年に閉山し、無人島となっています。この島は、もともとは南北約320m、東西約120mの小さな瀬であったものを、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にわたり6回の埋め立工事で拡張した人工の島です。南北約480m、東西約160mで、面積は約6.3haとなりました。海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で囲まれています。
海底炭鉱の炭質は良質の強粘炭で、出炭量の最盛期であった1941(昭和16)年には約41万tを出炭したとのことです。
軍艦島の人口の最盛期の1960(昭和35)年には5267人が居住していて、人口密度は83600人/㎢であったそうです。これは、世界一の人口密度でした。
1916年(大正5)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されています。現在は崩壊寸前とも言われていますが、建築学の世界では貴重な実験建物として研究対象になっています。
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谷川・コース演習Ⅱ(4年生)の2016年度(夏休み)のフィールドスタディは、長崎市でした。
この場所も、学生の希望で決まりました。くしくも、3年生のゼミは広島、4年生のゼミは長崎と、どちらも平和学習がメインテーマとなりました。
長崎の「平和公園」(電車通りからエスカレーターでのぼる高台の場所)と「平和記念像(北村西望・作)」を見学した後、電車通りの低い部分に戻り、近隣の「爆心地公園」の「原爆落下中心地」を見学しました。「原爆落下中心地」の記念碑は黒御影石のモニュメントですが、その横には、被爆した旧「浦上天主堂」の遺構が移築されています。
長崎県出身の彫刻家(文化勲章受章)、北村西望が5年の歳月をかけて1955年に完成した「平和記念像」の前で記念写真。前列の左から3人目の帽子をかぶった方は、被爆者の語り部の方。
この「平和記念像」は、被爆10周年の1955年の8月8日に完成しました。像の高さは9.7m、台座の高さは3.9m、総重量は約30tという巨大な作品です。 「高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平の左手は平和を、立てた左足は救った命を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、軽く閉じた目は犠牲者の 冥福を祈っている」と解説にあります。語り部の方のお話で、この像の顔は、まっすぐ正面を向いていない、とのことでした。像に向かって、やや右側を向いて います。これは、爆心地の方向を向いているのだそうです。
記念写真を撮る前に、被爆者の語り部の方からお話を伺いました。この方は、ほぼ毎日、この平和公園の一角にある「原爆殉難者の碑」の前に立ち、「平和記念像」を見学に来る人々に声をかけ、長崎の原爆の話をされるとのことでした。ニューヨークの国連本部に行って、「反核兵器・平和」のアッピールをされたこともあるとのことです。印象に残ったのは、「日本のことを“平和ボケ”と言う人がいるが、“平和ボケ”でいいんじゃ。“平和ボケ”こそ大切なのだ。日本は戦後70年間、一人として戦争で人殺しをしてこなかった。それを“平和ボケ”と言うなら、大いに結構」というお話でした。
その後、数分離れた、ちょっと高いところにある「長崎原爆資料館」をじっくりと見学しました。
翌日は、観光船に乗って世界遺産(「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」)の「軍艦島」ツアーに参加しました。
やや波があって、上陸できないかもしれないと言われたのですが、ゼミ生たちの熱意が通じたのか、無事に上陸・見学ができました。
通称「軍艦島」の正式名称は「端島(はしま)」です。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の海底炭鉱の島として、明治から昭和の時代に繫栄しました。しかし、1974(昭和49)年に閉山し、無人島となっています。この島は、もともとは南北約320m、東西約120mの小さな瀬であったものを、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にわたり6回の埋め立工事で拡張した人工の島です。南北約480m、東西約160mで、面積は約6.3haとなりました。海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で囲まれています。
海底炭鉱の炭質は良質の強粘炭で、出炭量の最盛期であった1941(昭和16)年には約41万tを出炭したとのことです。
軍艦島の人口の最盛期の1960(昭和35)年には5267人が居住していて、人口密度は83600人/㎢であったそうです。これは、世界一の人口密度でした。
1916年(大正5)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されています。現在は崩壊寸前とも言われていますが、建築学の世界では貴重な実験建物として研究対象になっています。