フィルスタコースのブログ

中央学院大学 法学部 フィールドスタディーズコースの情報を発信するブログです。

2017年01月

谷川先生のフィールドスタディ報告第2弾です!
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谷川・コース演習Ⅱ(4年生)の2016年度(夏休み)のフィールドスタディは、長崎市でした。

この場所も、学生の希望で決まりました。くしくも、3年生のゼミは広島、4年生のゼミは長崎と、どちらも平和学習がメインテーマとなりました。

長崎の「平和公園」(電車通りからエスカレーターでのぼる高台の場所)と「平和記念像(北村西望・作)」を見学した後、電車通りの低い部分に戻り、近隣の「爆心地公園」の「原爆落下中心地」を見学しました。「原爆落下中心地」の記念碑は黒御影石のモニュメントですが、その横には、被爆した旧「浦上天主堂」の遺構が移築されています。
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長崎県出身の彫刻家(文化勲章受章)、北村西望が5年の歳月をかけて1955年に完成した「平和記念像」の前で記念写真。前列の左から3人目の帽子をかぶった方は、被爆者の語り部の方。
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この「平和記念像」は、被爆10周年の1955年の8月8日に完成しました。像の高さは9.7m、台座の高さは3.9m、総重量は約30tという巨大な作品です。 「高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平の左手は平和を、立てた左足は救った命を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、軽く閉じた目は犠牲者の 冥福を祈っている」と解説にあります。語り部の方のお話で、この像の顔は、まっすぐ正面を向いていない、とのことでした。像に向かって、やや右側を向いて います。これは、爆心地の方向を向いているのだそうです。
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記念写真を撮る前に、被爆者の語り部の方からお話を伺いました。この方は、ほぼ毎日、この平和公園の一角にある「原爆殉難者の碑」の前に立ち、「平和記念像」を見学に来る人々に声をかけ、長崎の原爆の話をされるとのことでした。ニューヨークの国連本部に行って、「反核兵器・平和」のアッピールをされたこともあるとのことです。印象に残ったのは、「日本のことを“平和ボケ”と言う人がいるが、“平和ボケ”でいいんじゃ。“平和ボケ”こそ大切なのだ。日本は戦後70年間、一人として戦争で人殺しをしてこなかった。それを“平和ボケ”と言うなら、大いに結構」というお話でした。

その後、数分離れた、ちょっと高いところにある「長崎原爆資料館」をじっくりと見学しました。

翌日は、観光船に乗って世界遺産(「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」)の「軍艦島」ツアーに参加しました。
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やや波があって、上陸できないかもしれないと言われたのですが、ゼミ生たちの熱意が通じたのか、無事に上陸・見学ができました。

通称「軍艦島」の正式名称は「端島(はしま)」です。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の海底炭鉱の島として、明治から昭和の時代に繫栄しました。しかし、1974(昭和49)年に閉山し、無人島となっています。この島は、もともとは南北約320m、東西約120mの小さな瀬であったものを、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にわたり6回の埋め立工事で拡張した人工の島です。南北約480m、東西約160mで、面積は約6.3haとなりました。海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で囲まれています。

海底炭鉱の炭質は良質の強粘炭で、出炭量の最盛期であった1941(昭和16)年には約41万tを出炭したとのことです。

軍艦島の人口の最盛期の1960(昭和35)年には5267人が居住していて、人口密度は83600人/㎢であったそうです。これは、世界一の人口密度でした。

1916年(大正5)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されています。現在は崩壊寸前とも言われていますが、建築学の世界では貴重な実験建物として研究対象になっています。










2016年度も残りわずか。
これまで紹介していなかった今年度のゼミ行事をここで掲載します!
谷川ゼミからの報告です!
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2016年度の谷川・コース演習Ⅰ(3年生)は、夏休みのフィールドスタディの場所を「広島」としました。
ゼミ生の希望によります。オバマ大統領の広島訪問も影響したのかもしれません。

「広島平和記念資料館」(一部工事中でした)、「平和記念公園」「原爆ドーム」を見学し、さらに、爆心地となった病院(島外科)などを巡りました。
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平和記念公園の「原爆死没者慰霊碑」の前で。改めて、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」という文言をかみしめました。
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原爆ドームを背景に全員集合。右奥のビルは、マツダが建てた新しい「折り鶴タワー」。
最上階の展望ルームは、入場料が高くて上るのをやめました。
1階のお土産売り場には、広島カープのヘルメットが飾ってありました。あの「赤色」は、マツダの自動車の塗装の技術なんですって。

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原爆ドームの前で

「広島平和記念資料館」には、オバマ大統領が折った折り鶴が展示されていました。

翌日は、世界遺産の「宮島・厳島神社」を見学しました。
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世界遺産「宮島・厳島神社」の鳥居をバックに記念写真。鹿も、お出迎えです。


さて、実体験しての雪中生活。
まず「こんな密度で降る雪があるんだ」、という体験をしました。激しい降雪の中では、車の運転も大変
でした。どこまでが道路か、一面真っ白で道路の端がわからないのです。一つ間違えば崖下に転落です。
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密度の濃い雪で、前もよく見えず、道路の幅もわからない!

また、雪が止むと、今度は落雪や雪崩の危険がやってきます。
道路に張り出したたくさんの木の上には、雪の塊が乗っています。氷の塊となった、いわば石のようなも
のが車に落ちてくるわけです。これが無数にあるのですから、恐ろしいことこのうえない。
また、気温が上がって雪が緩むと、斜面の雪が崩れてきます。いわゆる雪崩です。
小規模な雪崩はあちこちで起き、車の行く手が塞がれたら、少しの場合はスコップで掘って自力で突破し
なければなりません。だから、当地の皆さんは車にかならずスコップを積んでいます。
大きな崩れの場合は、役所などに連絡して除雪車に来てもらわなければ抜け出せません。
もちろん車が直接雪崩に巻き込まれる危険もあります。
雪崩の頻発する危険地帯にはスノーシェッドと呼ばれる覆いや雪崩防止の柵があったりしますが、それが
ない場所もたくさんあります。柵があっても、そこから溢れた雪が落ちてくることもあります。
何より雪が固められた路面は、滑ります。
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木の枝からの落雪はコワイ!

下り坂はとくにコントロールが難しく、スピードを出せないのはもちろん、安易にブレーキを踏もうもの
なら、スケート選手のループのように、車が簡単に回転してしまいます。そうなったら、もうお手上げで
す。何をしてもムダ。急なカーブや下り坂では、エンジンブレーキを使ってノロノロと慎重に走らないと
いけません。

このような雪の中で、あと2ヶ月をどのように過ごすか、いろいろ思案中です。
こちらにいなければできないことをしたいと考えています。
今年度、景観の観察や古文書整理などはかなりやりましたが、お年寄りからの聞き取りがまだ不充分です
。この雪の期間に、なるべく古老から昔の話を発掘したいと思っています。
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雪の合間の晴れは、本当にキレイです!

雪の大変さのことばかり書きましたが、雪がなくてはできない、雪がないと困ることも実はいろいろあり
ます。それこそが豪雪地の文化でもあります。
それについては、4月にまた大学に復帰したら、授業の中などで話をしていきたいと思います。

国内研修もあと残りあと2ヶ月。

滞在している長野県栄村秋山地区は、今、2メートル30センチの雪に埋もれてします。
関東では想像できない状況です。
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夏冬比較はこんな感じ(滞在している宿舎の窓から隣の小学校を見る)。

豪雪地として知られた栄村ですが、この雪の中の生活を実際に体験することが今年度の1つの目的でした。
千葉県で2メートル超の雪が積もったら、全ての生活は完全に麻痺すると思いますが、ここ栄村では皆さん
普通に生活をしています。

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雪に埋もれた宿舎

2メートル30センチと聞けば、何だそれは!と驚かれると思いますが、実はこれ、平年並みの積雪量なので
す。今季は1月に入ってからも非常に雪が少なくて、10日までは50センチほどしかありませんでしたが、中
旬から連日のように激しい降雪があり、1週間で2メートル近くも積雪量が増え、ようやく平年並みに追い
ついた感じです。
もちろんもっとずっと多い年もよくありますし、11年前には4メートルを超えた年もありました。

栄村の玄関口に当たるJR森宮野原駅前には、JR駅構内としての国内最高積雪記録を示す標柱が立ってい
ます。終戦の年である1945年に何と7メートル85センチを記録しているのです。
それから比べれば、今年の雪は「いつも通り」に過ぎません。

この他地方との「豪雪観」の違いについては、面白い話があります。

11年前の豪雪のとき、テレビ各局は秋山地区のことを「山間の集落孤立!」とトップニュースで連日報道
しました。
確かに下界に下りる道路は雪で寸断され、雪崩の危険もあって通行止めとなり、10日ほど全面的に往き来
ができなくなりました。現地に入ることもできない報道陣は、秋山地区の民宿などに電話取材をしました

その取材を受けた民宿の女将さんの話です。
「大雪で大変ですね!食料など困っているのではないですか?」と聞かれるので、「もう大変です」とは
答えたものの、実は電話をしている目の前では、お年寄りたちがいつもの冬と同じく、お互いの家を訪問
しては、楽しく茶飲み話をしていた、というのです。
当地には「お茶呑み」という習慣があり、農業や他の仕事ができない冬には、自慢の漬物などをもって近
所の家を訪問し、一緒にお茶を飲みながらストーブやこたつにあたりつつ、楽しく世間話をする、という
のが恒例です。このときも、「大変です」と答えた目の前は、楽しいお茶呑みの最中だったそうです。
それでも「大変です」と答えたのには、わけがあります。
「せっかく取材して、大変でしょう!と言ってくれているので、悪いと思って、大変です!と答えた」と
いうのです。
その後、ようやく通行止めが解除されて下界に下りられるようになったとき、途中から車に乗り込んで同
乗取材をさせてほしいとマスコミに頼まれたそうです。
このときも、女将は「お客さんがいるわけでもないのに、せっかく取材に来ていてかわいそうだったから
、要らないお肉などをたくさん買い込んでしまった」というのです。「食料に困っている」様子を取材し
たいマスコミの期待を裏切らないように、気を遣って余計な買物をしたそうです。
毎年冬になると下界との交通が途絶えるのが当たり前だった秋山地区では、昔から山菜やキノコ、獣肉な
ど山で採れる食料を保存食にして貯えてきました。もちろん薪などの燃料も充分貯えてきたのです。
雪中生活への備えは万全にしておくのが恒例でした。

マスコミの多くは平野部中心、さらにいえば東京中心の報道機関です。
何か事件があると、「それが東京で起きたら」という発想をしがちです。
確かに東京圏が2メートル超えの豪雪に見舞われたら、全てが麻痺してとんでもないことになるでしょう。
食料も燃料も尽きて、大混乱になるに違いありません。
しかし秋山では(もちろん車社会、石油社会の今は困る部分もありますが)、普通に生活が成り立つのです
。それぞれの地域には地域なりの生活の知恵や技術があり、またものの見方も異なるのです。

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